3人の天才が生んだパソコン移植版「ゼビウス」

ゼビウスを生んだ遠藤雅伸、それに追従するかのように世に出た 大堀康祐(うる星あんず)、松島徹、藤岡忠。この3人の天才が絡んで生まれたパソコン移植版ゼビウス誕生秘話です。

ゼビウススペースインベーダーギャラクシアンがそうであったようにパソコンへの移植が期待されていました。しかし、ゼビウス用に設計された基板はCPUを3つも利用しているため当時のパソコンに比べて非常に性能が高く、移植は不可能であると当時の記事でも喧伝されていました。ところがゼビウスの発売から10ヶ月足らずしか経っていない1983年12月、誰もがゼビウスが稼働することすら夢に思わなかったであろうパソコン「PC-6001」で動かせる移植版ゼビウス第1号が発売されたのでした。その「タイニーゼビウス」をプログラムした松島徹は当時、中学生でした。不可能と思われていた移植を可能にしたのは天才ならではの大胆な発想の転換があったからでした。それは「画面の解像度を高くしていって綺麗にしていく」のではなく、「画面の解像度を犠牲にしても処理スピードを確保する」というものでした。しかし、思い切って画面の解像度を低くしたことは他にもメリットを生みました。それはキャラクタのデータも少量で済み、一度の読み込みですべてを読み込めるようになったことでした。これはとても重要なことです。なぜなら当時のプログラムが収録されるような標準デバイスはテープが多かったからです。

松島は自ら作成したタイニーゼビウスのプログラムをマイコンベーシックマガジンのメインコンテンツである「プログラムコーナー」へ投稿しました。これを製品化まで持って行ったのは電波新聞社の藤岡忠でした。通称「なにわ」と言えば膝を叩く方も多いでしょう。元々、藤岡は高校生時代に同級生と「ラシャーヌソフト」を興して電波新聞社へ卸していました。これが丁度、電波新聞社ナムコのライセンスを取り、ラシャーヌソフトへ委託したタイミングでした。ラシャーヌソフトで2本程度の移植を行った後、大阪で小さい企業をやっていても成功するか判らないこともあって電波新聞社へ入社したのでした。既に電波新聞社ナムコとの行き来が多かった藤岡は、投稿されたプログラムをナムコへ持ち込み、遠藤雅伸にチェックをお願いしました。遠藤から帰ってきた答えは「こんなソフトにゼビウスの名前は与えられない」という手厳しいものでした。しかし、それは「マップがまったく違う」「パックマンが出現してしまう」など2次的創作品に見られる自己満足的な面が目についたからでした。しかし、それでも藤岡はめげず、自宅で作業している松島へナムコの指摘点をフィードバックし、それを修正、郵送してもらい、そのプログラムの修正版をナムコへ持ち込み、更に修正を重ねていきました。時には電波新聞社の開発室へ泊まりがけで来てもらい、デバッグをしてもらうこともあったそうです。もちろん、松島が中学生だったこともあり、父親が保護者として同伴していました。2 〜 3ヶ月ほど繰り返し粘りましたがなかなか許諾は得られませんでした。そこで藤岡は「ゼビウスはダメなら『タイニー』ではどうでしょう?」と提案を行うことにしました。ナムコ側も藤岡の熱意に根負けし、最終的にはOKを出しました。「このままお蔵入りさせてしまうのも惜しい作品だった」と後に遠藤は語っています。こうして「タイニーゼビウス」は無事、発売されたのでした。

タイニーゼビウスの翌年、藤岡自身もゼビウスの移植を行いました。シャープ社のパソコンテレビ「X1」で動くゼビウスです。「最初は絶対に移植は無理だ」と思って取りかかったというこのゼビウスは、電波新聞社の開発スタッフが全員ゼビウスをやり込み、「このゲームがどういうものかを頭に叩き込む」ことから始めたそうです。この時代は移植に際してオリジナルの内部資料をメーカーから提供されることがなかったためです。従って藤岡は自らプレイを行うだけでなく、マイコンベーシックマガジンで発表されたゼビウスの記事、別冊「Super Soft Magazine」で攻略記事を書いていた うる星あんずのプレイをビデオに撮り参考にしながら手探りで移植を終えたそうです。プロジェクトの開始から半年、そのような熱意を込めて完成したゼビウス遠藤雅伸にチェックしてもらいました。その時帰ってきた答えは「はっきり言ってゴミですね」という非常にショックな一言でした。藤岡は隣に基板を置きながらの移植を行ったこともあり、移植の完成度には自信を持っていました。だからなおさらショックを受けたといいます。しかし、遠藤にしてみれば当時のゲームの中でも群を抜いて綺麗だったゼビウスのグラフィック再現にばかり注力され、タイニーゼビウスで克服する努力がなされていた処理速度の問題をおろそかにしている点にガッカリしたのでした。アクションが主体のゲームはプレイヤーが細かいアクションを起こしても対応できるように処理速度を高め、プレイヤーの動きを即座に画面へ反映しなければならないものだからです。しかし、藤岡はめげませんでした。社内に働きかけ発売を1ヶ月延期、社長からも「そこまで言うならやってみろ」と後押しをもらって、更に細かい調整を行い、遂にはナムコの許諾を得ることに成功したのです。

 こうして無事に発売されたX1版ゼビウスはその熱意がプレイヤーにも伝わったのか、1984年のパソコンゲーム史上で空前の大ヒットとなりました。このゼビウスをやりたいがためにX1を購入するユーザもいたそうです。また、電波新聞社はこのゼビウスを本格的に遊んでもらえるよう、ジョイスティックの同梱発売を行ったこともX1の購入意欲をかき立てた要因となりました。以降、電波新聞社は「完全移植」を期待されるような先駆けとなっていくようになります。


参考:ナムコゲームのすべて(B5版)、みんながコレで燃えた!NEC8ビットパソコン PC-8001PC-6001


ナムコゲームのすべて (SUPER Soft BOOKS)

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