ドラクエを生み出す運命の出会い

中村光一を中心にテキストを起こしてみました。タイニーゼビウスのときはベーマガなどからたくさん見聞できたのですが、こちらはほとんど知らないことばかりで文章を書いている私も非常に刺激を受けました。ドアドア以降はリアルタイムでジャンプを読んでいて、中村光一の写真が載った記事などあったなぁ、と思いだしました。

圧倒的な人気ゲームとなった「スクランブル」(1981/3, コナミ)はすぐさまパソコンへ移植されました。この移植を行った中村光一は、ゲームにどっぷりとはまり、スペースインベーダーはほとんど終わらないくらいの腕前だったといいます。ある日、18万5000点ほどまでスコアを伸ばしていたら、店主から「閉店だから帰ってくれ」と言われるほどだったといいます。高校へ進学するパソコンで動く「平安京エイリアン」(1979/11, 電機音響)に似たゲームを使ったデモを見て「これなら毎日タダでゲームができる」と思って数学同好会へ入会、プログラムを勉強しはじめました。この同好会にパソコンがあったのは日本の経済成長期に文部省が全国の学校へパソコンを配ったものが授業で利用されなくなったために譲り受けたからでした。中村はそのパソコンを使って1ヶ月ほどで基礎をマスターし、BASICを使って「ギャラクシーウォーズ」(1979/8, ユニバーサル)を移植しました。自分のパソコンを持っていなかった中村は、学校で禁止されていたアルバイトをしてお金を貯めてPC-8001を購入します。最初の目的は芸夢狂人の開発したゲームを遊びたいと思ったためです。パソコンを購入した後、ゲームセンターのゲームを遊び倒し、アルゴリズムをつぶさに観察しながらキャラクタなどの動きを盗んでいきました。そしてそれをパソコンで再現する、ということを繰り返してゲーム開発のノウハウを吸収していったのでした。

メキメキと技術を身につけて行った中村はプログラミングを行っていくことになります。その際にいつも目標を掲げて作成していました。最初のゲームでは「マシン語でプログラムできる技術を身につける」ということを目標にしました。なぜならパソコンの性能はそれほど高くないため、背景のスクロールやキャラクタの重ね合わせなど高度な処理を同時に行わせるためにはどうしてもマシン語を使ってCPUやメモリなどをダイレクトに操作する必要があったからでした。そのような目的を持って「スペースパニック」(1980/12, ユニバーサル)をパソコンへ移植し、「エイリアン パート2」を作成しました。中村はこのプログラムを工学社が発行していた雑誌「I/O」へ投稿しました。プログラムは見事に誌面へ掲載され、さらにカセットテープメディアでも発売されました。その売り上げの中から印税が支払われ、高校生にして20万円ほど手に入れることができました。次のゲームで掲げた目標は「横スクロールを行う」ことでした。そのために移植する題材として選んだのが前述したスクランブルです。当時、背景のスクロールという技術はまだ確立されたばかりのものでしたが、スクランブルでは自機がやられてしまうと背景が一定のポイントまで戻るため、これをしっかりプログラム内部で管理しなければなりません。これをプログラムでしっかり再現することを主眼としたのです。このような目的を持って作成されたスクランブルは移植度が高く、得られた印税は100万を超えてしまいました。このお陰で高校2年生にして確定申告を行うハメになった、という逸話を作ったほどです。3作目のゲームでは「縦スクロールを行う」という目標を掲げます。PC-8001では4ドットごとに縦スクロールさせることはそれほど難しくないため、中村はこれを最低でも2ドット単位で動かしたいと思っていたのです。そこで思いついたのが「縦に2ドットずつずれている画面をふたつ用意して交互に表示させる」最終的な出力で2ドットでスクロールさせているかのように見せるテクニックでした。

そのようにしてプログラムを作成していった印税を使いPC-8801をキャッシュで購入してプログラムをしていたのですが、近所にできたNECのショップでPC-9801が登場すると知ることになります。既にお金を使ってしまっているために購入することはできなかったのですが、そのときにそのショップの店長が「君ならこれで稼げばいいだろう」と言ってあるチラシをくれました。それはエニックスが1982年9月20日から3ヶ月間の募集期間を設けて開催した「第1回 ゲーム・ホビー・プログラムコンテスト」でした。賞金総額は300万円、最優秀賞100万円という賞金が用意されており、既に何作かゲームを作成して自信をつけていた中村は腕試しに参加してみることを決意しました。中村は「ディグダグ」(1982/3, ナムコ)でまとめて潰すと高得点となる点数稼ぎをエッセンスとして取り入れた「ドアドア」を作って応募することにしました。しかし、本心ではディグダグをそのままコピーして送りつけたかったと思っていたと言います。それくらいディグダグにハマっていたのでしょう。ドアドアの開発期間は約1か月。授業も上の空でノートを取ることもせず、自分のプログラムのことばかり考えて没頭していました。そのように短期間で開発されたドアドアでしたが、ゲームデザインは非常にしっかりしていました。しかし、残念ながら最優秀プログラム賞を獲得できませんでした。それでも準優勝に当たる優秀プログラム賞を獲得することになりました。ドアドアはパッケージ化されたソフトウェアとして店頭へ並び、その印税は1,000万円に上りました。このコンテストには「週刊少年ジャンプ」が取材に来ていましたが、この取材を行っていたのが後に盟友となる堀井雄二でした。当時の堀井はフリーライターをしており、雑誌に連載を持っていました。その連載に対して投稿される会員を管理するためにPC-6001を購入していました。まだプログラムでデータを管理できるようなスプレッドシートもないような時代です。そのパソコン購入がキッカケとなりパソコンゲームに熱中し、自らもプログラムを組んだりするようになっていきました。パソコンが使える人間ということで、集英社鳥嶋和彦に命じられ、このコンテストを取材しに来たのです。自らプログラムを組む堀井は実は「ラブマッチテニス」を仕上げて応募していたのですが、なんとこれも「入選プログラム賞」へ入賞していたのです。後に堀井は「自らのゲームを自ら取材するハメになった」と語っています。

中村は当時を振り返り、「パッケージされていたとしてもマニュアルなどはコピーしたような簡素なもので、これだったら自分にもできる」と思っていたと語っています。それはまだパソコン市場が黎明期だったためですが、高校時代からソフトウェア会社を作ることを心の中に持っていたのでした。高校卒業後、それを実行に移しました。東京の大学へ進学してゲーム開発を行うことにしたのです。スクランブルなどで得られた資金を元手に、高校・大学時代のプログラミング仲間5人で「チュンソフト」を設立しました。1984年、中村が19歳のときです。翌年には堀井雄二と組んでファミコン版のドアドアを作成、20万本を売り上げた。しかし、ファミコンは既にヒット作なら50万本ほど売り上げるほどの勢いがあったため、中村はこれでは満足しませんでした。次のゲームを何にするか考えたとき、ファミコンでは性能の制約を受けて作成が難しいアドベンチャーゲームRPGなどをやりたいと思いました。ハードの制約を受けて他社ではやらないが、逆にそのようなニッチなジャンルで挑めば売れるからと踏んだからです。中村は自分の考えをエニックス千田幸信プロデューサーに相談しました。千田は「ならばまず堀井がパソコンで作成した『ポートピア連続殺人事件』をやってみるのはどうだろうか。」と提案したのです。堀井は「コマンド入力形式」であればファミコンでもアドベンチャーゲームができると踏んでおり、そのようなプログラム的な部分まで含めた打ち合わせを重ねた行ったふたりは最終的に「できる」との結論に達し、堀井がシナリオ、プログラムがチュンソフトという開発体制でわずか数ヶ月の間に完成させました。発売されたこのゲームは最終的に70万本以上を売り上げ、チュンソフトへのロイヤリティ数千万単位となりました。ポートピア連続殺人の開発中にふたりがハマっていたゲームがありました。それはエニックスの指示によりアメリカ派遣された「アップルフェスト」で知った「Wizardry」や「Ultime」です。堀井はUltimaに、中村はWizardryにどっぷりハマり、遊び倒しながらお互いにそれらのゲームの評価を話し合ったりしてRPGを作っていきたいよね、という話をしていたそうです。それが後に日本で大ヒットをもたらし、社会的影響を与えたロールプレイングゲームドラゴンクエスト」を生み出すことに繋がっていくのでした。


参考文献:みんながコレで燃えた!NEC8ビットパソコン PC-8001PC-6001、音楽・ゲーム・アニメ コンテンツ消滅


今回、抽出したのはシューティングに関連する部分だけですが、書籍「コンテンツ消滅」のほうはドラクエの開発以降についてのほうが細かい記述がなされています。ドラクエが社会現象となったこと、チュンソフトドラクエの開発から手を引いた理由などまでインタビューを交えて書かれているので読み応えがあります。ドラクエの現場については漫画「ドラゴンクエストへの道」も有名ですね。新書版も出ているようですので興味のある方は読んでみることをお勧めします。