先見の明を活かした若獅子

インベーダー部分の加筆部分です。この時代の開拓者は自分なりの哲学を体現しているような気がします。


日本でインベーダーバブルが弾ける一方で、海外ではひとりの実業家が生まれようとしていました。のちにソフトバンクの社長として名を馳せる若き日の孫正義です。彼は小さい頃から政治家や実業家になることを夢見ていました。そうは言っても政治家はなろうと思って簡単になれるような職業ではありません。しかし、事業家であれば努力次第でなることができる。そう考えた孫は中学3年のときから実業家になる決心を固めていきます。孫は進学校へ進んで行ったのですが「卒業証書が実業家になるためには役に立たない」と思って周囲の反対を押し切って中退、単身アメリカへ留学しました。

留学後、19歳のときに事業家になる決意を「人生50年計画」というもので表しました。

  • 20代に名を上げる
  • 30代で軍資金を最低1,000億円を貯める
  • 40代で軍資金を使って勝負する
  • 50代で事業を完成させる
  • 60代で事業を継承させる

その計画に従って事業家の道へと邁進していくことになりますが、そのための資本金をまず集めなくてはなりませんでした。しかし、アルバイトでお金を貯めるのは時間が掛かりすぎると考えた孫は「何か発明を行うしかない」と思い、「事業になりそうなアイディアを毎日考える」ことを自分に課すことにしました。その甲斐あって1年で250ものアイディアを捻出することができたといいます。カリフォルニア大学でコンピュータと出会ったことで事業アイディアのひとつを現実化することになります。それはポケットコンピュータを使った翻訳ソフトで、ローマ字で打ち込まれた日本語を翻訳して、翻訳結果を画面に表示したり音声で出力したりできるという、今日、電子手帳と呼ばれるものの原型でした。孫は日本に一時帰国した際にそれを松下電器へ売り込みに行きました。しかし、うまくいきませんでした。諦めずシャープに売り込みに行き、専務だった佐々木正と出会い、見事に特許を取得する契約に結びつけました。この翻訳コンピュータは後に「ザウルス」と呼ばれるようになっていきます。この契約で得た1億円を元手にユニソンワールド社を設立、ソフトウェアを開発して日本のメーカーへ販売を行っていくようになります。

孫はその卓越した先見の明を持ち、日本で起きているインベーダーブームが半年程度で終わることを見抜いていました。「日本人は熱しやすく冷めやすい」と思っていたからです。実際にはインベーダーブームは半ば人為的に終わったようなものではありましたが、孫の予想は的中することとなり、インベーダーブームは終了、スペースインベーダーの筐体はあっという間に値崩れを起こしていくことになります。筐体は最盛期には100万円もするほどのものもあったそうですが、ブームが終わると5万円という安値で取引できるほど暴落していったのです。孫はこれに目をつけ、スペースインベーダーを筐体ごと安く買い取ってアメリカへ輸入しました。それは「日本でのブームが終わった」というだけで、まだアメリカでブームになっていないという経済時差があることを知っていたからです。このようにして買い叩いたスペースインベーダーを輸入し、レストランやカフェなどにリースしてその収益を稼いでいくというビジネスを行いました。半年で300台ほど輸入してさらに1億円の資金を増やすことに成功したのです。この成功の後、孫は会社を興した仲間に会社を売却し、帰国して日本ソフトバンク社を設立することになるのでした。


参考文献:中村天風安岡正篤に学ぶ 成功の法則