泣いて笑ったパチンコ業界(加筆)

少しだけ資料が得られたので加筆しました。

私はパチンコの歴史はまったくの門外漢*1ですが、末尾に挙げた参考文献には「インベーダーとパチンコ業界の関係」や「三共フィーバーにどうして火がついたのか」という点まで詳しく書いてあり、非常に読み応えがある本でした。

その本を中心にパチンコ業界がどのようにインベーダーブームをどう捕えていたのか、そしてどのように立ち向かっていったのか、という辺りを追記したので、単体でもそれなりに読み応えがあるボリュームになったように思います。

このように加筆するのは楽しいのですが、先の年代までどんどんと雛形作成を進めていきたいという気持ちもまたあるのですが、なかなかうまく資料が得られなかったりしてどちらも難しいと最近よく痛感します。



スペースインベーダーが巻き起こしたブームは何も良い影響ばかりがあったわけではありませんでした。何かがブームになるということは他の分野からも人が流れてくるということを意味するからです。その中で一番の打撃を受けたのがパチンコ業界です。

スペースインベーダーが登場する直前のパチンコ産業は正に勢いに乗っているところでした。座って遊戯できるようになっただけではなく、1972年に新しいタイプの機種「アレンジボール」が登場、その翌年の1973年には「電動式ハンドル」が付くようになって遊戯者が遊びやすくなりました。続く1974年には「電動役物」が登場となり、これもまた人気でした。さらに間寛平が歌う「ひらけ!チューリップ」(1975/8/25, 徳間音楽産業)が大ヒット、パチンコ史上初となるミリオンセラーを達成します。日活は山本正之が作詞・作曲したこの歌を原作にし、パチプロとクギ師を主人公に据えたロマンポルノ映画「濡れた欲情 ひらけ!チューリップ」(1975/12/24, 日活)を作成*2するなど、パチンコ業界は正に勢いに乗り始めます。パチンコホールも繁華街から郊外へもエリアを拡大して増え始めていくようになり、1977年にはパチンコ遊戯人口が約3,000万人にも達し、「国民的娯楽」と呼ばれるほどの巨大な産業になっていました。

しかし、スペースインベーダーが登場すると、大人も子供もインベーダーにのめり込むという一大ブームとなり、顧客は流れていってしまいました。特に若年層のパチンコ離れは深刻なものだったといいます。売り上げも全体的に10%減となったこともあり、転業や廃業を余儀なくされたパチンコホールも続出しました。中にはパチンコホールからインベーダーブームに乗ってゲームセンターへ転向する店舗も出現するなどありましたが、このような形でやっと増え始めた店舗数も大きく目減りしていたため、全国で1万軒を超えて推移していたパチンコホールはあっと言う間に9000軒台にまで落ち込んでしまいます。このような危機的状況を受けてパチンコ業界は総出を上げてスペースインベーダー対策を打たなくならなくなるほど打撃を受けていました。パチンコ業界はかつてもボウリングブームや競馬ブームなど、他のレジャーがブームになる度に打撃を受けていましたが、インベーダーブームで受けた打撃は他のレジャーに受けた打撃の比ではなかったのです。

全国遊戯業協同組合連合会はその発足日にちなんで11月14日を「パチンコの日」とし、1979年11月14日前後の日程でファン感謝デーを全国展開、新たなパチンコファンの獲得を図りました。三共社、京楽社、平和社というメーカーはそれぞれ、「ブレンド」「UFO」「メテオ」など、電動役物マイクロコンピュータで制御する「特電機」と呼ばれるものを市場に投入していきました。それでもインベーダーブームの人気はなかなか覆すことができす、市場投入された特電機の成果は今ひとつ出なかったようです。「何とかゲームに打ち勝たねば、パチンコは再び衰退の一途を辿ることになるのでは・・・」というムードがパチンコ業界に立ち込めていくようになります。全国遊戯業協同組合連合会の山崎作治郎事務局長(当時)は新聞のインタビューでインベーダーブームについて質問され、こう答えています

はっきり言ってわからない。線香花火みたいにも思えるし、意外と根強いブームかもしれない。我々としてはこんなブームは早く終わって欲しい。それまでは静かに見ているしかないでしょう。

そのような危うい状況を打破したのが1980年に三共社が発売した「フィーバー」でした。フィーバーは特電機「ブレイク」の後継機で、三共社が創立15周年を記念して1980年7月から8月にかけて全国各地で行った「創立15周年記念謝恩特別新型機発表展示会」と題した展示会で発表された機種のひとつでした。このフィーバーは玉がスタートチャッカーに入賞するとスロットが回転し始め、リールの回転がストップしたときに「7」が揃うと大当たり、アタッカーと呼ばれる開口部が30秒開いたままになるようになっています。アタッカーに玉を入れていくと次々に出玉が払いだされるようになっており、さらにアタッカーが開いている時間内にVゾーンと呼ばれる場所に玉を入れると、アタッカーが開閉を繰り返すようになるため、一度当たりさえすれば大量の出玉を得るチャンスも大きいというものです。

このフィーバーは出玉が過激であるということから、発表された当初は導入を敬遠するパチンコホールが多かったといいます。これが人気となるのは約半年後、新潟県長岡市パチンコホール「白鳥」が123台ものフィーバーを一挙に導入したことがキッカケと言われています。白鳥はホールコンピュータメーカーの「エース電研」の直営店で、このときの出玉の状況*3や人気ぶりがホールコンピュータを介して全国へ広まったのです。当初は過激と受け入れられなかったフィーバーのゲーム性が遊戯者には受けた理由は、三共社スタッフがたまたまパチンコホールで遭遇したひとコマがもたらしたものです。スタッフ達は機械が壊れてチューリップが開きっ放しになって非常に大喜びしている遊戯者を目の当たりにし、これをヒントにしてその遊戯者が大喜びしている状況をうまく制御しつつも再現させたのです。遊戯者に嬉しさを与えつつ、ゲームとして成り立たせることに腐心した結果、そのゲーム性は遊戯者に理解され、ブームに繋がったのです。

フィーバーブームのときにはさらに平和社からも「羽根物」と言われる「ゼロタイガー」が発売され、パチンコはさらにゲーム性が高まっていくと同時に、顧客の獲得に成功していくことに成功、業界の危機を救うことに繋がっていきます。インベーダーのブームに泣かされたパチンコ業界でしたが、こうした発明を生み出すことに繋がり、再び盛隆を極めていくことになっていくのです。


参考文献

毎日新聞

*1:STGの歴史も執筆しながら知ったことのほうが多いくらいですから

*2:監督は神代辰巳、作中の音楽は原作同様に山本正之が起用されました。

*3:玉箱が不足してしまい、バケツを代用品に使ったなどの逸話があります。